#005:「みっともない人体(からだ)」


バーナード・ルドフスキー=著、加藤秀俊・多田道太郎=共訳
初版1979年(原書初版1971年)
評者=佐藤潔人
掲載=『SD』1980年3月号


文明としての身体感覚

“The Unfashionable Human Body”という原題で10章からなるこの1冊は、各章ごとにめずらしい写真や、衣服に関係がある興味ぶかいタイトルが与えられているものの、しかめつらしい身体論や服飾ではないし、かといって、いかなる既成のカテゴリーにも属さない不思議な本だ。あえていうならば、<人体芸術><人体美学>というフィルターをとおしての文明・風俗批評ということになるだろう。

目まぐるしい場面の転換を楽しみながら一気に読もうとすると、無類に博学多識なルドフスキーの視線を追いきれず疲れてしまう。その理由は、原書の難解な部分がときには略され意訳され、全体としてより軽快なテンポで、より平易に訳出されているにもかかわらず、訳者がいうように、著者独特のペダンチックな表現とスタイルが強いからである。それはアカデミックに過ぎる内容ゆえの堅苦しさや重みではない。それどころか、著者は古今東西の古典に通じた蘊蓄をできるだけかみくだいてくれるのである。全章にみられる論理にしても、スタイリッシュではあるが構造的には単純な部類に入るから、問題はレトリックの方なのである。

まさに千変万化というべき、好奇心に輝く少年の目かと思えば突然アイロニカルな目つきになり、洒落たスノビズムかと思えばストレートな本音だったりする。その展開は空間的に時間的にもあたかも無限の拡がりをみせる。多くの読者は軽い知的な目眩を感じ、気がついたときには大変疲れてしまっている。しかし、ベースに古典を踏まえた著者の座標軸は確かで、決してくずれない。それでも、単純にパターン化されるきらいのあるアフリカや中国、日本の理解についてはやや疑問が残るが、本書の意図からすれば看過してさしつかえない。

何よりも本書の魅力は、美学という建物のなかに開かれた小民俗博物館を、日常的なパースペクティブでのぞかせてもらえることである。

数多い鋭い指摘の中でも<未開>と<文明>に対するユニークな視点がすばらしい。人間は自身の姿かたちに満足することができない動物であり、不断に変化や装飾を試みることでは未開人も文明人も何ら変わらないどころか、むしろ、その合理性や美的価値において未開人の方が遙かに文明人を凌いでいる場合が多いとさえ、著者はいたずらっぽい目でいうのである。たしかに、私がアフリカで今まで見てきた肉隆起や入れ墨、ボディー・ペインティングにしても、素材感情にとらわれず純粋に装飾や模様として見れば、驚くほど清緻でみごとであり、それはそれは美しいものが少なくない。しかし、それらが幼気な少女の身体を時には危険なほど傷つけることで成り立っていることを思うと、私たちの美意識は表現されたものに対してではなく、その事実に拒否反応を起こしてしまう。

いくら頭のなかで、芸術作品の意味はアクチュアルな素材に依存するのではなく、それらの分節化された形式構造のなかにイメージとして存在するのだと繰り返しいいきかせたところで、悪くなっていく気分にブレーキをかけるわけにはいかない。芸術作品が表現するものは、形式が生み出す虚構の世界には違いなくとも、生々しい現実の感情や意識を越えられなくなってしまうのである。

芸術は、大きく静的芸術と動的芸術のふたつに分けることができる。そして静的芸術の起源が、原始未開人の宗教的シンボルや、異性を性的に刺激することから始まった装飾芸術であり、それが次第に身体装飾から器具装飾、絵画、彫刻に発展したと考えるならば、未開人の人体装飾が非人間的であり非芸術的であるとするのは誤りであることがわかる。それどころか、人間本来の芸術的衝動を最も生き生きと伝える、真に人間的な表現にほかならないのである。もし、それをグロテスクというならば仕方がないが、彼らから見れば私たち文明人の衣服や装飾こそグロテスクであり、身に着けることなど想像するだけで恥ずかしいことなのである。つまり、身体であれ衣服であれ絶対的な美の基準などどこにも存在せず、したがって、グロテスクといえどもある秩序が欠けた相対的な美のことで、決して非美でないことはオーガスチヌスの昔から保証されているのである。要するに美とはしょせん調和にすぎないということができる。それも事物の間にみられる均等とか比例といった秩序の型式には違いないが、かといってすべての調和が必ず美であるとは限らない。たとえばそれぞれに秩序と調和を持ちながらも、大きく隔たった異文化の目には美として映らないことが往々にしてある。美はしかるべき調和(debita proportio)、つまり文化ごとの認識能力に一致するか、それと類似する調和でなければならない。美しいものと認識される調和とはこのような調和である。したがって対象の秩序や調和が認識能力を超えていれば、それは美としての喜びや快を喚起しえないのは当然である。ルドフスキーはそんなことを百も承知で、異なった風俗や習慣に驚いてみせたり、茶化してみせたりしながら、知らず知らずのうちに私たち読者を、文明とは、人間とは一体何なのかという本質的な問いに引きずりこんでいく。また、その途中では、衣服やファッションの意味が逆説的に解ける仕組みになっている。

そもそも衣服が人間の身体を外界から保護し覆い隠すために登場したと考えるのは単純にすぎる。なぜならば裸族の多くは祭式の時だけ衣服を着けるからである。一方、ステイタスシンボルとして階級や地位を示す機能をも果たしてきたことを考えれば、衣服が担ってきた物理的役割は意外に小さいということがわかる。ということは古代や中世までの彫刻や絵画に現れた人像を見れば明らかなように、描かれた衣服というのはその素材やかたちを表徴しているから真実なのではなくて、それらを表現した時代や人々の身体感情の形象化であることで真実であったといえる。それが証拠に、同じ裸体でも裸族と文明人の日頃みているものとは大変ちがうものなのである。未開人の裸体に不思議と私たちの知っているあのハダカを感じないのは、裸になっている者に裸でいることが他者にとってどういうものか、という自覚や意識が全くないことに起因している。いいかえれば身体のなかの極めてプライヴェートな部分と社会的に解放されてしかるべき部分、といった私たち流の観念が存在しない身体感覚しかなく、その文化に帰属する者すべてがそのようなひとつの観念のなかにあるからなのである。だから私たちが常に衣服や身につける装飾に関心を持ち続けているということは、私たちが常に自分自身の身体に関心を持ち続けていることに他ならないのである。ということは、単に風俗やファッションを扱っているだけにみえる本書全体が、人間にとっての芸術や衣服の意味を知るための大メタファー、あるいはひとつの寓話となっていることにも気がつかなければならない。ちょうどカフカのアフォリズムのような序文の出だしは偶然ではないのである。そのようにでも読まなければ、訳者が「あとがき」で言うように、あたかもパチンコ玉のようにあちこち駆けめぐる華麗な目まぐるしさに、読者はただビックリさせられるだけになってしまう。

(さとう・きよんど/昭和女子大学教授、芸術学・比較文化)

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